ウェンティが璃月港に訪れるのはいつも突然だった。自由な風のごとく気が向いた時に現れて、そして同じように去ってゆく。
それ故、客人をもてなす風習がある璃月の神であった鍾離は旧友であり恋人でもある彼を毎回思うようにもてなすことができず歯痒い思いをしていた。
前回なんてウェンティが酒からつまみから全て持参していたせいでもてなすどころかもてなされてしまったぐらいだ。
次は必ずもてなしてやろうと家に酒をストックし、風がいつ訪れてもいいようにつまみになる料理も毎日買っていた。
しかし、前回の訪問からおおよそ一ヶ月。
いつもはその間も何かと理由をつけて顔を見せていた恋人は、顔を見せるどころか璃月の大地を踏むこともなかった。
ウェンティが自由を愛する神だということは嫌というほど知っている。
まるで猫のようだと彼を称すれば、単語だけでアレルギーの症状を引き起こしていた恋人。
彼が次璃月を――自分のもとを訪れるのはいつになるのだろうか。
鍾離の手には先程万民堂の卯師匠から貰った米まんじゅうが。
以前酒を切らしてしまって文句を言っていたウェンティに茶と一緒に出してやったそれを、彼は大層気に入っていた。
いつもは食べながらも『お酒が恋しい』と愚痴っているのに、米まんじゅうを出した時はその言葉を言わず嬉しそうに頬張っていた。
鍾離自身も好んで食している璃月料理。恋人がそれを気に入ったと言えば、それは実に喜ばしいことだった。
しかし、残念ながら一緒に食べたいと願う相手は此処には居ない。
一人で食すには些か量が多いと受け取った米まんじゅうの入った袋に視線を落とす鍾離は、望舒旅館に足を延ばして友と語らうのも悪くないかと足を進めた。その表情が何処か寂しげだということは、彼自身気付くことは無かったが。
(あの呑兵衛は一体どこにいるのやら。……また眠りについているというわけでは、ないとは思うが……)
気ままな恋人に振り回されてばかりだと苦笑を漏らす鍾離。
そんな彼の脳裏に過るのは、生きた心地のしなかった五〇〇年。魔龍ドゥリンの毒に侵され永い眠りについていた恋人を前に何もできずにただ目覚めることを待つしかできなかったあの絶望はもう二度と味わいたくないものだ。
魔龍のような危険な存在は今のテイワットには居ないと知りながらも、思い出した恐怖は鍾離の頭から出て行ってくれなかった。
まもなく璃月港からモンドの方面へかかる橋を渡り終えるかどうかのところで立ち止まる鍾離。
監視されているようで嫌だと言っていた恋人の意思を尊重して使うことを控えていた力を使うのは、自身の心の平穏のためだ。
(無事が分かればそれでいい)
監視するわけではないから許される。
そう自分に言い訳し、琥珀を隠し空を仰いで風を探す鍾離。
隣国から自国へと流れてくる穏やかな元素の力は自分にはない柔軟なもので、彼の国らしさに口角が上がった。
そんな穏やかな元素を感じていれば、途端閉ざされていた鍾離の瞳が見開かれた。
彼の表情に浮かぶのは驚愕そのもので、何かに弾かれたように来た道を戻る鍾離は自身が走っている事に後から気が付いた。
港を抜け、閑静な住宅街へと走る男の姿に、鍾離先生が走ってる!? と驚きの声が聞こえたりもした。
しかしそれらの声をすべて無視して彼が向かうのは、自身が住まう家だった。
「あ。やっと帰ってきた!」
勢いよく家の玄関を開けば、気の抜けた声で「やっほ~」と手を振っている恋人の―――ウェンティの姿があった。
「勝手に家に入っててごめんね? まだ仕事中かと思って待ってようかなって思って―――」
鍾離の気など知らないとばかりにいつも通りの様子で笑っているウェンティを少し憎いと思いながらも、それでもやっぱり愛おしくて抱きしめてしまう。
突然の抱擁に楽し気な声は途切れ、動揺を隠さない声で「モラクス?」と名を呼んでくる。
どうかしたのかと言わんばかりのその音が腹立たしい。
逢いたいと思っていたのは自分だけなのかと腕に力を込めれば、今度は心配そうに名を呼ばれてしまった。
「モラクス。ねぇ、モラクス。どうしたんだい?」
抱擁を解く気が無いと伝わったのか、宥めるように背中に回した手でポンポンとあやされる。
駄々をこねる子どもに対する扱いと同じその仕草に、言葉ではなく抱擁で不満を訴える鍾離。
宥める手が止まり上着を握りしめられたら僅かだが気持ちが楽になった。
「もぉ……。折角我慢してたのに……。本当、君って狡いよね?」
「……何故俺が『狡い』と言われる? 恋人が来るのを心待ちにしていた俺を散々焦らしておいて随分な言い草だな?」
責めることは在れど、責められる覚えはない。
そう訴えるように腕の中の存在を見下ろせば、ぷくっと頬を膨らませて不満を露わにしているウェンティと目が合った。
「あのね、『逢いたい』って思ってるだけじゃダメなんだよ? 行動しなくちゃ、逢いたくても逢えないんだからね?」
「? 当たり前のことを何故今言う?」
「もー! モラクスって本当、朴念仁だよね?」
「だから、何故そう思う? 理由を言え。理由を」
理由も分からず責めるなと睨めば、どうしてわからないんだと睨み返されてしまった。
だが、口を開いたウェンティから出た言葉に鍾離の表情から不機嫌は消え、変わりに驚いたように目が見開かれていた。
「『逢いたい』って思うなら君だってモンドに来ればいいじゃないか! いっつもボクばっかり君に逢いたくなってて、こんなの、狡いじゃないか!」
今回こそ君がモンドに来てくれるまで我慢しようと思っていたのに……。
そう言って拗ねたように唇を尖らせるウェンティは、「そりゃボクの方が君のこと好きだから仕方ないって分かってるけどさ……」と悲し気に眉を下げてしまった。
最初から負けが確定している根競べだったと抱き着いて来るウェンティ。
鍾離はそんな恋人に抱擁を解いて腕の中にすっぽりと納まる体躯を引き離した。
「違う!」
「モラクス?」
先のウェンティの言葉を否定する言葉を口にするも、当人は『いきなり何?』と分かっていない様子。
その表情からもウェンティは、自分ほど鍾離は逢いたいと思うことは無いと本気で思っている事が分かった。
鍾離はすまないと頭を下げ、自分が短慮だったことを謝罪した。
恋人に会いたいと思わないわけがない。むしろ、いつもモンドに帰さず自分の傍にいて欲しいと思っているぐらいウェンティを愛している。
それなのに、自分は何故こんな簡単な事を失念していたのだろうか?
鍾離は六〇〇〇年もの永きに渡り生きた自分が今日ほど愚かだと思ったことはなかった。
「いつもお前から逢いに来てくれていたことに、今、気付いた……」
「えぇ? 今?」
「すまない……。俺は、お前から俺のもとに来ることを当然と思ってしまっていたようだ……」
驚きを隠さないウェンティに項垂れる鍾離。
言われてみれば、そうだ。逢いたいと思ったのならば、自分がモンドに足を運べばよかったのだ。
何故今の今までそんな簡単な事に気付かなかったのだろうか?
自分の思い込みのせいでひと月も恋人に逢えず、更には最も大切な存在を悲しませ、そして勘違いさせてしまった。
「このひと月、毎日お前が来ることを待ち侘びていた。だから―――、……だから頼むから俺の想いがお前に見合っていないと、勘違いをしないで欲しい」
こんなにも愛しているというのに、ウェンティにはそれが伝わっていない。
自分の振る舞いのせいだと分かっていながらも鍾離は懇願した。今後は改めるから信じて欲しい。と。
縋る思いでウェンティを見つめれば、馬鹿だなと笑う恋人が首に腕を巻き付けてきた。
「あの石頭のじいさんがそんな必死になっちゃうぐらいボクの事好きなんだ?」
「そんな生半可なモノじゃない。お前を愛している、バルバトス。たったひと月という刹那が永劫とも思えるほどにお前がいなければ俺はもう―――」
「あー! もー! 分かったから! 分かったから、ストップ! これ以上は耳から溶けちゃう!!」
顔を真っ赤にして言葉を止めてくるウェンティに鍾離は言葉を噤む代わりに口づけを落とし、久方ぶりの恋人の唇を堪能した。
突然の口づけに驚いただろうウェンティの体躯はピクリと跳ねたが、抗うことなく鍾離からのキスを受け入れる。
それだけでウェンティも自分と同じ想いだったのだと分かって心は踊った。
何度も何度も愛おしい恋人に口づけを落とす鍾離。
幾ら口付けても足りないとウェンティの唇を求めていれば、「しつこい!」と言いながら笑い顔を背ける可愛い恋人。
耳に馴染む笑い声は鍾離の心を満たし、自然と彼の表情に浮かぶのは微笑。
口づけから逃げようとする恋人を追いかけ頬に耳朶に口づけを落とし続ける鍾離は、ウェンティの耳元で「再会早々で悪いが」と吐息交じりの声で囁いた。
「まずはお前を愛させてくれ」
「もぉ……、まだお昼なのにぃ……」
「仕方ないだろう? お前はこんなにも愛らしいんだ。夜まで『待て』というのならば、その愛らしさを少しは抑えてはくれないか?」
欲を孕んだ音で耳からウェンティを侵蝕する鍾離の『愛』。
恥じらうように身体を小さくするウェンティは上目遣いを向けてくると、食事に出かける体力は残してよと訴えてくる。
二人で楽しく酒を飲みながら語らう時間も大切にしたいと言ってくる恋人に鍾離が返すのは勿論という言葉と笑い顔。
「ああでも、その予定は明日以降でもいいだろう?」
「まさか明日の朝までエッチする気なの?」
「それはお前の体力が持たないだろう? 食事に出かけられる時間までに終えられるかは難しいというだけだ」
ちゃんと夜更けには休ませてやると笑えば、大して変わらないよと苦笑を漏らすウェンティ。
だが、幸運にも自分の手には二人の好物があり、愛し合った後は閨で茶を飲みながら米まんじゅうを食べようと誘えば、行儀が悪いと言いながらも「いいよ」と恋人は抱き着いて来た。
「俺とお前しかいないんだ。行儀など気にする必要はないだろう?」
「それはそうだけど」
「そうと決まれば、さっそくお前を愛させてもらおうか」
「モラクスのエッチ!」
「お前にだけだ」
だから許せと笑い抱き上げれば、幸せそうに笑うウェンティから返ってくる『答え』は口づけだった。