ボクには大切にしているモノがたくさんある。
まず自由。これはボクがボクで在るために一番忘れてはいけない信念でもある。
そして次に風。これはきっとボクにとって母のような存在だからだ。
他にもたくさんある。詩にリンゴにお酒。そして、かつてボクが統治を任されたモンドという国。
全部全部。大切でかけがえのないモノ。どれか一つでも欠ければ、ボクはボクではないとさえ思っているぐらいだ。
たとえ神という地位を退こうとも、永劫変わることはない。
ボクはこの土地で生き、この土地の行く末を見届け、そしてこの土地で息絶える。
そう思っている。―――いや、今となっては『そう思っていた』、だ。
*
夜明けが近づくと空は白み始め、闇色から紺色に変わってゆく。
そんな空の変化を眺めながらまだ寝静まっているモンドの城下町を抜ければ、訪れる旅人を歓迎するように開かれた城門が見えてきた。
かつて異国からやってきた旅人により齎された多くの奇跡を忘れない為に何人たりとも拒むことのない自由の国へと変化を遂げたモンドの朝は、今日も清々しいまでに美しい。
城門をくぐり湖に掛けられた橋を渡り終えたところで振り返れば、美しく壮大な城が視界の大半を埋め尽くした。
ボクは背負った荷物を担ぎなおし、これからもどうか平和であるよう願いを込めて一礼すると、踵を返して歩き始めた。
これまでふらふらと自国だけでなく他国にも放蕩を繰り返していたから、旅立ちは初めてじゃない。でも、今日から此処―――モンドが帰る場所で無くなるから、どうしても感傷を覚えてしまう。
大切な場所だから、大切な、本当に大切な国だから、淋しさを感じてしまうのは当然かもしれない。きっとそれを口にすれば、『じゃあ行かなければいいじゃない』とエウルアあたりに言われそうだ。
容易に想像できるその姿に一人クスクスと笑いを零し、思い出すのは昨晩のこと。
最後の夜だから故郷の味を堪能しようといつものようにエンジェルズシェアに顔を出したボクを待っていたのは、盛大な送別会だった。『モンドの偉大な吟遊詩人ウェンティの門出を祝して!』と横断幕のようなものまで用意されていて、正直面食らってしまった。
唖然とするボクの背を押しカウンターに座らせたのはアンバーで、ボクが座った両サイドにはエウルアとガイアが、エウルアの隣にはロサリアが居て、呑み仲間勢ぞろいと言ったところだ。
驚いて言葉を失っていれば蒲公英酒のアップルサイダー割が目の前に置かれ、カウンターの向かいに立っていたのはディルックだった。店の奢りだと言われ、好きに飲むよう勧められたのはきっと後にも先にもあの時だけだろう。
ボクがかつての風神『バルバトス』であったことをこの場に居る全員が知っているわけではないはずなのに、それでも皆ボクの離郷を惜しんでくれた。
酔っぱらったエウルアには『相手に来させればいいじゃない!』と詰め寄られ、ロサリアには『出戻らないよう風神様に毎日お祈りしてあげるわ』と意味深に笑われ、流石のボクも昨夜はたじたじだった。
オーナーであるディルックの大盤振る舞いに羽目を外した面々は次々と酔い潰れ、酒場はまさに死屍累々。最後まで潰れなかったのはボクとホスト役に徹していたディルックだけだった。
夜明け前に経つ予定だからと後始末諸々を任せてエンジェルズシェアを後にする際、あのディルックからもらった言葉にボクは不覚にも泣きそうになったっけ。
――― 風が淀むことあればモンドが総力を挙げて磐石な大地を崩しに行きますとお伝えください。
笑みを浮かべ一礼する彼の言葉を反芻して、つい目頭が熱くなる。民に愛されることは、こんなにも心を満たすのか。と。
昇る陽を背にアカツキワイナリーを抜ければ、もう隣国は目前。
沢山の思い出と友の――民の想いを胸に歩みを進めれば、石門の近くに人影が見えた。
「モラクス?」
見つけた姿に驚き、ついつい真名を口にしてしまう。慌てて口を手で覆い隠せば「今更遅い」と苦笑が返って来た。
周囲に人の気配がないか確認し、自分達以外誰もいないと分かってボクはほっと胸を撫でおろす。
「どうしたの? なんで此処に居るの?」
「お前を迎えに来た」
「えぇ? わざわざ?」
駆け寄るボクの肩から荷物を奪うモラクスはそのままポンと頭に手を置いた。
よしよしと髪を撫でるモラクスに、まるで子ども扱いだと拗ねるボク。でも、次の瞬間髪を撫でていた手はボクを引き寄せ、抗う間もなく抱きしめられた。
「……モラクス?」
「守護神を娶るとあらば、相応の礼儀は必要だろう?」
抱きしめる腕に力を込めるモラクスは、「もうモンドには帰さない」と目じりを下げて微笑んだ。
その優しい眼差しに、さっきは何とか引っ込めた熱がぶり返してしまった。
「何故泣く?」
「ごめっ、ちが……、なんか胸がいっぱいで……」
零れそうになる涙を拭うように目尻に触れる指。それすらも愛に満ちていて、ボクは堪らずモラクスの胸に顔を埋めてしまった。
頭の上から聞こえるのは笑い声と、ボクが落ち着くまでこうしていようと言う穏やかな声。そのあまりにも慈しみに満ちた声に、ボクの昂った感情は暫く落ち着くことは無かった。
*
ボクは今日、この命が還るはずだった場所を離れる。それはかけがえのない存在と共に生きるため。
今まで大切にしてきたたくさんの宝物への想いは変わらない。でも、今日からはボクを愛おしそうに抱きしめるこの存在がボクの帰る場所となるのだ。