たった一本の酒では、七神一の酒豪と呼ばれるバルバトスを満たすことは不可能だ。
長らくの禁酒のせいか、呼び水になったと早々に空になった酒瓶で遊ぶ悪友。
モラクスはそんなバルバトスの振る舞いを軽く笑った。
「風情の欠片もない奴め」
その言葉はいつも通りの悪態だったが、声色はいつもと全く違うものだった。
優しさに満ちていて、慈しまれているような気さえしてしまうバルバトス。むずむずと頬が痒くなり、動揺を誤魔化すように立ち上がれば、ずっと座っていたせいかふらついてしまった。
こける。と思ったバルバトスだが、その体躯は暖かなぬくもりに包まれて驚いた。
「いつもフラフラ飛んでいるせいで足腰が軟弱になっているんじゃないか?」
「う、るさいなぁ! 別にいつもいつも飛んでるわけじゃないから平気だし!」
「男児の身体とは思えぬ華奢さでは信憑性に欠けるな」
転ばぬように抱き留めてくれたのはモラクスで、楽しげに笑う彼が纏う穏やかな風に安堵する。
だが、穏やかなだけではない風の正体が分からず、どうにも落ち着かないバルバトスだった。
「酒を――」
「何?」
「いや、もっと酒を用意しておけばよかったなと思ってな」
「滅多に呑まないくせに」
今度からは備えておくべきだなと笑ったモラクスだが、彼は滅多に酒を呑まない。
バルバトスは、備えておくのはいいけれど、吞まずに放置してダメにしそうだと苦笑いを返した。
だが、返される言葉に絶句するバルバトス。
「俺は呑まないが、お前は呑むだろう?」
それはつまり、モラクスは自分のためにわざわざ呑まない酒を用意しようとしているという事か。
酒は味わって呑むものだとか、己の限界を超えて呑むなとか、今まで散々口煩く言ってきたくせにどういう風の吹き回しだ。
バルバトスはモラクスの手から離れ、警戒する。上げて落す気なんでしょ!? と。
まるで威嚇してくる小動物のようだとその姿を見下ろすモラクスは肩を竦ませ、己のらしくない言動を反省した。
また同時に、恩義を感じているとはいえこうも甘くなるものかと自分に呆れもした。
「お前が落とされることをしなければ良いだけの話だろうが」
「! ほら! ほらほら! やっぱり思った通りだ!!」
簡単には騙されないからね!
そうそっぽを向くバルバトスは、これ以上揶揄われるのは御免だとふわりと身体を宙に浮かせ、窓枠の上に降り立った。
「じゃーね、モラクス。お酒がボクを呼んでるからそろそろ帰るね」
「お前は結局何をしに来たんだ?」
早々に飛び立とうとしている翼を見つめ、問いかけるモラクス。答えを知りながらも尋ねる自分は実に意地が悪いと思ってしまう。
肩越しに視線を寄こしてくるバルバトスは、「詩を唄いたかっただけだよ」とつんとした言葉を残し、羽ばたいた。
窓枠から離れるつま先。
燦々と陽の光が降り注ぐ箱庭の空を飛ぶのは、美しい風の神。
モラクスはその姿が消えるまで見送ると、空になった酒瓶を手に取り口角を持ち上げた。
「お前のおかげで友の顔を思い出すことができたぞ。バルバトス」
微笑む彼が思い返しているのは、呪いの言葉を残して地底深くに屠られたかつての友の姿―――ではなく、共に笑い語らったかけがえのない友の姿。
心を侵食していた毒は、跡形もなく消えている。
モラクスは悪友が去った空を見上げ、心を亡くした友に詫びた。
「すまない、若陀。俺はまだ、其方にはいけそうにない」