「まだ居たのか」
長衣を羽織り寝床から起きて来たモラクスは、いまだ箱庭を満たす優しい音の出所に苦笑交じりの声を掛けた。
すると美しい音色はぴたりと止み、窓辺で外の景色を眺めながらライアーを奏でていたバルバトスは身体ごとくるりと回転させてモラクスへと向き直った。
「ごめんごめん。『煩い』って怒る誰かさんもいなかったし、凄く気持ちよくってつい、ね」
ライアーを片すバルバトスは両手を組んで空へと伸ばすと、「怒られる前に帰るね」と笑ってみせた。
たくさん唄えて満足したから。と言うバルバトス。彼は一体、何処まで分かっているのだろうか。
モラクスはそんな悪友の振る舞いに苦笑から柔らかな笑みへと表情を変え、「そう急ぐな」と、彼を引き留めた。
返って来たのは、驚いた顔。
美しい翡翠色の瞳を大きく見開いて此方を凝視してくるバルバトスに、その驚愕の理由に心当たりのあるモラクスは肩を竦ませ踵を返す。
「ちょ、モラクス?」
「喉が渇いたから飲み物を取りに行くだけだ。良いから大人しく待っていろ」
珍しく困惑の音を奏でる声に、いい気味だと笑うモラクス。いつもいつも掴み処のないバルバトスに振り回されているのは自分の方なのだから。と。
背後から聞こえる「えぇ……?」という戸惑いの声。
モラクスはくつくつと笑いながら棚の奥に片付けて忘れていた酒瓶を手に取り悪友を振り返る。
「さて、何処で呑む? お前は行儀良く宅を囲んで楽しむ性質でもないだろう?」
「! ……、失礼だな。ボクにだって偶には大人しくテーブルで呑むことだってあるんだからね?」
「『偶には』だろう?」
「そうやって揚げ足を取るところはどうかと思うよ? でもまぁ、じいさんだから仕方ないかぁ」
口煩いのがモラクスだもんね。
そう言って悪態を吐いてくる悪友に歩み寄るモラクスは彼が腰かける窓辺に自身も腰を下ろした。
「……こういうの、行儀悪いんじゃないの?」
「それを嗜める者がこの場に居るのか?」
「! 確かに居ないね?」
「なら、問題ない。行儀が悪かろうと、酒を呑んで羽目を外そうと、気にする者は誰も居ないからな」
そう言って笑みを浮かべるモラクスは手にした酒の栓を開け、バルバトスへと差し出した。
引き留められたことに驚き、酒に誘われたことにも驚いていたバルバトスは、驚きを通り越して何やら疑惑の目を向けてくる。
それに肩を竦ませるモラクス。
差し出した酒を引っ込めて猪口を介さず口に含んで見せれば、驚愕の声で名を呼ばれた。
「やはり寝起きに酒は、効くな」
「当たり前でしょ!? もー! 滅多に飲まないくせに何してるの!」
そういう無茶は君の性格じゃないでしょ!?
そう言いながら酒瓶を取り上げてくるバルバトス。
モラクスは確かにと笑い、「毒は入ってないぞ」と、先の行動は訝しんでいた悪友に対するアピールだと告げた。
「バカじゃないの? そんな事思ってるわけないでしょ!」
「あんな目で見てきておいてか?」
「それは君がボクみたいなことをするからでしょ!」
いつもいつも行儀よく猪口にちびちび酒を注いで飲んでいるくせにどうして今日は酒瓶に直接口を付けるなんて真似をして見せるのか。
そんなことを言いながらモラクスと同じように酒瓶に直接口を付けるバルバトスは、「モラクスは行儀よく呑んでこそモラクスなんだからね」と言いながらも酒を分かち合う気は無いようだ。