「本当に何でもない。ただ、こんな往来でお前を口説くべきじゃなかったと反省しただけだ」
行くぞ。そう言って歩調を速める鍾離に、ウェンティは慌てて小走りでその後ろ姿を追いかけた。
追いついて歩調を緩めても、直ぐに距離ができてしまって、どうにも隣を歩けないウェンティ。
足の長さが違い過ぎると何度も何度も駆けて追いつくを繰り返しながら、いつもは自分が隣を歩けるように緩やかな歩調で歩いてくれているのだと改めて実感する。
いつだって優しい恋人に、ついつい頬が緩む。だが、そんな恋人が何やら不機嫌になっていることを思い出し、にやけている場合じゃないと緩んだ頬を引き締めるようにぺちぺちと叩いた。
必死に鍾離を追いかける姿は、遠目から見てもいじらしくなんとも愛らしいものだった。
そのせいか、今度は男子生徒だけではなく女子生徒にもその姿が見つかってしまって鍾離の眉間の皺は更に深くなった。
恋人が傍に居ることは嬉しい。だが、他者が自分だけの愛らしい存在を認知することは許せない。
どうすれば傍に置きながら他者から隠しておけるのかと考えながら研究室のある棟に入った鍾離は、ちょうど到着したエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの『開』ボタンを押して待つのは、勿論恋人だ。
鍾離から遅れること数秒、エレベータに乗り込んできたウェンティ。鍾離は直ぐに『閉』ボタンを押し、数秒の密室を手に入れた。
僅かに息を弾ませるウェンティはおそらく不満を口にしようとしたのだろう。
だが鍾離はそれよりも先に、此方を振り向く恋人の腕を掴みそのまま隅へと押しやると愛しい恋人の唇を強引に塞いだ。
「んっ」
聞こえるのはくぐもった声。その愛らしい音を聞きながら恋人の唇を堪能していれば、僅かにエレベーターが揺れる。おそらく途中の階で止まったのだろう。
名残惜しいと思いながらも恋人を解放し、何事もなかったかのように乗り込んでくる他者とあいさつを交わす鍾離。
ウェンティは隅っこで俯いたままだったが、他者の死角―――鍾離の背中で彼と手を繋ぎ、ぎゅっと力を込めて溢れる感情を伝えていた。
やがて鍾離の研究室がある階に到着するエレベーター。
鍾離は後から乗り込んできた同僚に適当な挨拶をかけ、エレベーターから降りた。勿論、ウェンティも一緒に。
「もぉ……、スリルを求めるタイプじゃないくせに……」
「俺が求めていたのはスリルではなくお前だ」
「! ……なんで過去形なわけ?」
「お前が俺だけのモノに戻ったからな」
廊下を歩く鍾離をウェンティは再び追いかける。でも、先とは違い今度は隣を歩ける。
さっきと何が違うのか分からないが、どうやら恋人は先程まで『自分のモノではない』と感じていたらしいことは分かった。
ウェンティは隣を歩く恋人に触れるか触れないかと言った近い距離まで寄り添うと、「何言ってるの」と彼にだけ聞こえる小さな声を漏らした。
「ボクはずっとモラクスのモノだと思ってるのに、違うなんて寂しいこと言わないでよ」
拗ねるように唇を尖らせるウェンティは、上目遣いで恋人を見上げる。ボクは君のモノで、君はボクのモノでしょ? そう言いたげに。
「違うとは言ってない。ただ、俺以外がお前を見ることが我慢ならん」
「それはボクの台詞なんだけど?」
どうして君が怒るのか理解できないと頬を膨らませるウェンティ。
鍾離は他人の熱視線になど永遠に気づいて欲しくないから、「お前はこの先も変わらず俺だけを見ていればいい」と理由を告げることなく『理不尽』を貫くと言って笑った。