TREMOLO [ANNEX]

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見なかったことにしたい

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「旅人」
 先程のウェンティの声は幻聴で、自分は何も聞いていない。
 そう自分自身に言い聞かせて再び友人を起こそうと手を伸ばした空の動きを止めるのは、背後からする男の声だった。
 行動に効果音がつくとすれば、きっと今の自分には『ぴしっ』と瞬時に水が凍りつく際のそれがぴったりだろう。
 そんなことを考える冷静な自分と、どうしよう!? と慌てふためく自分が混在している脳内はお祭り騒ぎだ。
 ぎぎぎ……と、油の切れた蝶番のように不自然な動きで振り返る空が見たのは、思った通り、鍾離の姿だった。
「しょ、鍾離先生……」
 観察するように自分を見下ろす美丈夫の視線に、蛇に睨まれた蛙状態とばかりに委縮する空。
 先のウェンティの声が頭の中でぐるぐる回っていて、この場合、どう反応していいか分からない。
 二人は仲が悪いはずだ。それはこれまでのやり取りから明らかなのだが、今しがた聞いたウェンティの甘えた声はそれを否定している。
 もしかすると、ウェンティの態度は好意の裏返しなのかもしれない。それは好きな子を苛めて気を引こうとするような稚拙な振る舞いだ。
 だが、ウェンティは長く生きているとはいえ、『人』ではなく『魔神』。そして『魔神』になる前は『風の元素精霊』だった存在。
 精神が成熟していないと結論付けるまでにはそう時間がかからなかった。
(そっか。ウェンティ、鍾離先生のことが本当は好きだったんだ)
 思い返せば、納得できる。何かにつけて突っかかるのはいつもウェンティだったから。
 きっと目の前の男性は、眠りこけている悪友の恋心になど気付いていないだろう。毎度毎度、煩わしいと思いながらもそれに応戦していたから。
 押し黙って自分を見下ろす鍾離に、空がとる行動は一つだけだ。
 子供じみた友人の恋心を、相手に気付かれるわけにはいかない。
 そう。それはさながら、子を守る親のような意思だった。
「あ、あの、鍾離先生――――」
 とりあえず、眠って意識のないウェンティに接触させてはいけない。
 そんな使命感に突き動かされ口を開いた旅人。しかしその声は「すまない」と言う鍾離の声に遮られた。
「えっ……?」
 困惑する空に鍾離は苦笑いを浮かべる。
 しかし謝罪以外の言葉は口にすることなく、ゆっくりと動き出した。
 自分の隣に身を屈める鍾離から、視線を逸らすことができない。
 思考を停止させたまま男性の動向を追っていた空が次に目にしたのは、それはそれは驚くほど優しい笑みだった。
「バルバトス、寝床の準備ができたぞ」
「ん……やぁ……」
「ほら、こっちに来い」
「んん……もらくすぅ……」
 ウェンティの肩を優しく揺する鍾離。それに先程と同様甘えた声を出しながらも愚図るウェンティだが、続いた声に顰め面を緩ませ、腕を伸ばして鍾離に抱きついて見せた。
 甘えるように鍾離の胸元に頬を摺り寄せるウェンティ。その姿に鍾離は笑みを一層深くし、そのままウェンティを抱いたまま立ち上がった。
 空は目の前の光景に理解が追い付かず、ただ呆然と二人の姿を追ってしまう。



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2024-02-08 公開



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