TREMOLO [ANNEX]

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緑の帽子



 なんとか宥めようと試みる胡桃だが、ウェンティは別人かと思う程聞き分けが悪かった。
 いつもの茶目っ気たっぷりな愛嬌は家に忘れてきたのだろうか?
 そんなことを思う程らしくない取り乱し様だ。よほどのショックを受けたのだろうと心中を察する胡桃は、そもそも彼の恋人がちゃんと説明していなかったことが元凶ではないかと責任転嫁した。
 お気に入りだろう緑の帽子は、見る影もない惨状に見舞われている。
 可哀想にと無機物を哀れむ胡桃は、どうしたものかと天を仰ぎたくなった。
 声を掛けた手前、途中で放り出すのも忍びない。
 だが、このままでは本当にとんでもない噂が街に流れてしまいかねない。
 人は得てして噂が大好きなものだ。特に色恋沙汰に関するモノは大好物だろう。
 きっと明日には『鍾離さんのところのウェンティさんが女と密会していた』とか、『その相手は鍾離さんの上司らしい』など、根も葉もない話がそこかしこで聞こえてくるに違いない。
 そんな事態になれば、誤解だと分かっていながらもこと恋人に関しては猫の額よりも心が狭い美丈夫が猛烈な圧を掛けてくるに決まっている。
 なんとしてでもそれだけは避けたい胡桃だが、如何せん、目の前の悩める少年は猶も『知らなかった』と『でもそのせいで鍾離先生を好奇の目に晒してしまった』と怒ったり悲しんだりと大忙しで此方の話を聞こうともしていない。
 これは腹を括って明日嫉妬に狂った男と対峙するしかなさそうだ。
 内心肩を落とす胡桃に、彼女の心労を知らないウェンティは「聞いてる!?」と距離を詰め寄ってきた。
 近い近いと後ずさるのだが、傍から見れば胡桃がウェンティから『言い寄られている』風に見えなくもない。
 これはいよいよ本気で不味いのでは?
 そう胡桃が思った時、突然誰かに腕を掴まれ思い切り引っ張られた。
 思わずよろめき転びそうになる胡桃。何とか足を踏ん張り無様に大地を舐めることは避けられたが、状況は更に悪くなった気がした。
「鍾離さん」
 思わずうげっと声が出そうになったが、それは何とか堪えることができた。
 顔を引き攣らせながら自分の腕から手を離す男――鍾離の名を呼べば、彼は無表情のまま一瞥すると、何も言わず視線を自身の恋人へと向けた。
 随分な扱いだと胡桃が思うのは当然だ。だが、これで明日の噂話の的になることは回避できそうだ。
「何をしている」
 胡桃がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、突然息をすることも困難な殺気に襲われた。
 それなりに修羅場をくぐって来たと自負している彼女だが、今まで感じたことのない威圧に息を詰まらせながらも目の前に聳える背中を見つめた。
 穏やかな笑みを称えいつだって冷静な賢人。恋人が絡むと少々面倒臭くなるが、それでも彼に『畏怖』を抱いたことはこれまでなかった。
 だが、今胡桃が感じているのは紛れもないそれで、できることなら今すぐこの場から逃げ出したいとすら思っていた。
「白昼堂々浮気か?」
 押し殺した声には怒気しか含まれていない。
 その声にとんだ誤解だと言いたい胡桃だったが、問われているのは自分ではないから口を噤む。尤も、口を挟もうにも細い呼吸音しか唇から出てくれない状況なのだが。



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2024-02-14 公開



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