モラクスが璃月港を発ったのは翌日の昼過ぎのことだった。体調を崩したままの胡桃にモラクスが代行を申し出たのは朝の事のはずなのに、僅か数刻後には現地に向かい出発するなんていくら何でも急すぎると思ってしまった。
バタバタと出発の準備を進めるモラクスに、ボクはせめて一夜明けてからにしてはどうかと提案した。そんな急いで準備をすれば絶対に何か大切な物を忘れてしまうに決まってると思ったから。
でもボクの提案にモラクスは『問題ない』と返事をして準備を進める手を止めることは無かった。元より頑固なじいさんだ。これは何を言っても無駄だなとボクは早々に説得を諦め、今夜から暫く一人寝か……と窓の外を眺めモラクスの準備が終わるのを待った。
準備を終えたモラクスは荷物を玄関へと揃え、踵を返してボクの元へと歩いて来た。そのまま出発しそうな勢いだっただけに、ボクは内心驚きながらも『どうしたの? 何か忘れ物?』と尋ねた。モラクスはその問いに『忘れてはいない』と返してきてそのままキスをしてきた。触れるだけのキスだったけど、10秒―――いや、30秒以上は塞がれていたと思う。
「堅物そうに見えるのに、結構可愛いところあるんだよね」
月明かりが差し込む窓辺に腰かけ空を眺めていたボクは静まり返った室内に独り言を響かせる。
思い出した昼下がりのやり取りに胸はポカポカ暖かいのに、ちょっぴり苦しかった。
指で唇をなぞったのは、無意識のこと。
モラクスからのキスを思い出している自分を、普段なら恥ずかしいと思っただろう。でも今この空間にいるのはボク一人。恥ずかしいと思うよりもずっとずっと淋しくて恋しくて、堪らず自分自身を抱きしめた。
「さっさと仕事を終わらせて帰ってきてよね……」
モラクスはながいキスの後、力いっぱいボクを抱きしめてきた。苦しいぐらいの抱擁にボクが声を上げれば、苦し気な表情を見せたのはモラクスの方だった。
『4日……いや、3日後には戻る』
璃月港から軽策荘までの往路にも満たない日数を口にしたモラクスは、ボクのことが心配で堪らないのだろう。無茶苦茶な日数にボクは苦笑を漏らし、ちゃんと『人』として振舞うように注意した。ボクのことは心配しないで。と。
モラクスのお荷物になりたくないボクは『お酒の力は万能なんだよ』と茶化しちゃったけど、気持ちを汲んでくれたのかモラクスは『他人に迷惑をかけることはするな』と笑ってくれた。その笑い顔が悲しげだったということは気づいていたけれど、ボクは敢えて気づかない振りをした。
もう一度キスをしてきたモラクスは今度は数秒で唇を離し、『行ってくる』と玄関を後にした。
モラクスが居ない部屋は昨日までと同じはずなのに何故か全然違う空間に思えて落ち着かない。
ボクは肩に羽織った恋人の上着に手をかけ、それに包まるように膝を抱えて小さくなる。
鼻腔を擽るのはモラクスの匂い。大きく息を吸い込めば、胸いっぱいに愛しい香りが広がった。
モラクスの匂いは、ボクをとても安心させる。
でも、それは一瞬だけ。
安心した次の瞬間には、闇がジワジワと広がってくる。
「眠るの、嫌だなぁ……」
以前のようにお酒に頼ればたとえ眠りに着いて悪夢に追われても、起きている時だけはこの闇を忘れられるだろう。その為に準備した秘蔵のお酒は部屋の中央のテーブルの上に置かれている。
しかしそれはまだ封がされたまま。勿論他のお酒を呑んでもいない。
ボクはお酒が大好きだ。恋人になった今でも偶にモラクスを怒らせるぐらいに。それなのに、どうしても今日はそれに手を伸ばすことができない。
窓へと頭を預ければ、コツンと小さな音が耳に届く。
ボクはモラクスの上着に包まったまま星が瞬く空を見上げた。
「モラクス、君も今この空を見上げてるのかな……?」
恋人は今どの辺りだろう? 帰離原には到着しただろうか? 出発した時間を考えると、まだだろうか? ちゃんとあたたかなベッドで身体を休めているだろうか? 怪我などしていないだろうか?
浮かんでは消える心配事に、ボクはどうか彼が無事に帰ってきますようにと星に祈りを捧げる。
モラクスは岩の魔神であり璃月創始『岩王帝君』。その力は『人』となった今も健在で、こんな祈りを捧げる必要など本来はない。
でも、脳裏に過る『闇』はボクを星に縋らせる。まだ記憶に残る『友』の亡骸に、愛しい人の姿が重なってしまったのだ。
絶対にあり得ないと闇に呑まれる自分を嘲るも、『絶対』がこの世界に存在する確証がないと知るからこそ恐れを払拭することができないのだ。
「ボクのことは心配しないで。君と暮らすこの場所でなら、きっと堪えられるから。だから、……だからどうか、無茶だけはしないで……」
モラクスの上着を握る手に力を籠め、ボクは更に小さく丸まるように自分を抱きしめた。
恋人の匂いに包まれるボクは静かすぎる夜の帳を一人窓辺で過ごす。