『人』の身体とは不便だ。毎日一定時間眠らないと頭は働かなくなるし、身体もだるくなる。
たった一夜眠れなかっただけでその症状は現れ、ゾッとする。モラクスが帰るまでこれが続くのか。と。
「ウェンティ、大丈夫ですか?」
「! びっくりした。驚かさないでよ、雲菫」
「どうしてそんなに驚くんですか? さっきから何度も呼んでいたのに。まさか全く聞こえてなかったんですか?」
突然顔を覗き込んできた女の子に驚いたボクはバランスを崩して椅子から転げ落ちそうになってしまう。何とかバランスをとって床に転がることは避けられたけど、無様なことには変わりない。
いきなりなんだと慌てるボク。
すると雲菫は腰に手を添えて『呆れた』と言いたげな表情を見せる。今何をしている最中か分かってますか? と次の言葉を予期したボクは、「ごめんなさい」と素直に呆けていたことを謝った。
「公演開始までもうすぐです。連日のリハーサルにお疲れのこととは思いますが、それならそうと相談してくださいね?」
「うん。ありがとう。心配かけてごめんね?」
「良いんです。貴方のライアーの音色を多くの人に聴いてもらう為ならいくらでも心配させてもらいますよ」
完璧な舞台を目指すあまり貴方に無理を強いていることは事実ですし。
そう笑う雲菫にボクは無理をさせられているとは思っていないと笑い返した。
「雲先生の妥協を許さない姿勢、ボクは好きだから」
「そう言ってもらえると安心します。でも、その呼び方は止めてくださいと言いましたよね? 貴方と私は対等、なんですから」
周囲が敬意を持って呼ぶ彼女の愛称を口にすれば、返ってくるのは苦笑い。
雲菫曰く、『先生』とは教授することのできる人の敬称。とのことだ。
他からそう呼ばれるのはともかく、ボクには何も教授できることが無いと言った彼女は頑なにそう呼ばせてくれない。
(そんなことないと思うんだけどなぁ。モラクスだって『雲先生』って呼んでるんだし)
彼女の中の教授の基準は一体何のか。いや、おそらく『芸能』に関することというのは分かるのだけれど。
それでもモラクスが『先生』と呼んで良いのにボクはダメと言われると複雑な気分だった。
(まぁ、モラクスってそっちのセンスは壊滅的だしね……)
ボクよりもずっとずっと優れた神であるモラクスよりも評価してくれている雲菫の芸能に関する審美眼は正しい。でも、やっぱり複雑は複雑だ。
「ウェンティ? また呆けているんですか?」
「違う違う。雲菫は真面目だなって思ってただけ」
「? ライアーと詩に関しては貴方もそうでしょう?」
「まぁね。それじゃ、真面目なボクは真剣にリハーサルに向き合うね」
「ええ。是非そうしてください」
茶化すように笑って椅子から立つボクに雲菫からもらうのは真面目過ぎる返答だ。
きっとこれがモラクスなら『散々サボっておいて真面目が聞いて呆れる』とか軽口を返してくるんだろうな。
無意識に恋人の返答を想像してしまったボクが覚えるのは愉快さとほんの少しの恋しさだ。
公演のために準備されたステージに立つボクはライアーを弾き、詩を奏でる。
ボクの声に合わせて雲菫が演じるのは、モンドの伝承。奇しくもそれは自由を求め立ち上がった群衆の聖戦―――友が命を落とした戦いを後世に伝えるために語られた物語だった。
ライアーを奏でながら、物語を詠いながら、璃月港に居ない恋人を想う。
この時期にこの詩を詠うことができたのは、モラクスが傍に居てくれたから。ボクを掴まえようとする過去が追いかけてこないと思っていたから。
でも、モラクスは璃月港の何処を探してもその姿は見つけられない。
それでもボクはこの詩を詠わなければならない。ボクのライアーと詩を評価してくれる人のために、最高のパフォーマンスをしなければならないから。
(大丈夫。ボクは大丈夫)
暫く見ていない『夢』はまだ鮮明に思い出せるけれども、それは過ぎた風だと分かっているから大丈夫。
そう自分自身に言い聞かせるボクだけど、過去はひたりひたりと迫ってきていた。
「! いたっ」
「ウェンティ! 大丈夫ですか!?」
一瞬何が起こったか分からなかった。頬に走った熱に思わず声を上げれば、遅れてジンジンと内に響く痛みが生じてきた。
状況を理解しようと辺りを見渡せば、突然止まった演奏に驚いたのか雲菫は慌てて駆け寄ってきた。
彼女はポケットからハンカチを取り出し、「動かないでください」とそれをボクの頬にあててくる。
ボクの手には弦が切れたライアーが。どうやら切れた拍子にそれが頬に命中してしまった様だ。
「良かった。深くは切れていませんね」
「ごめん、ありがとう。後でハンカチは弁償するね」
「気にしないでください。それよりも、今日の貴方はやっぱり変です。何かあったんですか?」
傷口を確かめる雲菫と、彼女が手にしたハンカチに染みた赤に申し訳なさを覚えるボク。
言い訳の仕様がないと反省していれば、先程よりもずっと真剣な表情で尋ねられてしまった。
正直、真面目な彼女に真実を伝えず誤魔化すことはできる。
でも、それはしてはいけないと良心が訴えてきたから、ボクは情けなさを目の前の女の子にぽつりと零した。
「実は……、実は鍾離先生が仕事で昨日から璃月港から離れてて」
「ええ、それは伺っています。昨日、出発前に貴方のことをお願いされましたから」
「え……」
「鍾離先生、酷く心配されていましたよ。『調子を崩すかもしれないが、フォローしてやって欲しい』と何度もお願いされましたから」
「えぇぇ……、何それ……」
ボクの知らないところで何してくれてるの、あのじいさん。
本気で恥ずかしいし情けないしで穴があったら入りたいってきっとこういう時のことを言うんだろう。
羞恥のあまり蹲るボク。
すると雲菫はそんなボクの頭を撫で、「冗談かと思ってました」と苦笑を漏らした。
「真面目な顔をして冗談を言うなんてウェンティさんの影響かと思ってましたが、本気だったんですね。誤解をしてしまい鍾離先生には申し訳ないです」
「しれっとボクのこと貶さないでよ……」
「ごめんなさい。でも貴方は良く冗談を言うでしょう? 関係性の深い相手の行動やしぐさは影響を受け易いと言いますし」
「やめて。居た堪れないから」
「揶揄っているわけじゃないですよ。お二人は本当に仲睦まじいのだなと微笑ましく思っただけです」
「絶対揶揄ってるでしょ、それ」
文句を言いながらも、顔は上げられない。だって絶対今雲菫は慈愛に満ちた顔をしているだろうから。
ボクにとっては赤ちゃん同然の女の子から仕方のない子供を見守る親のような眼差しで見られるとか、本当無理だ。