「ただいまー」
モラクスと二人で暮らす家に響く自分の声。それは誰もいない空間に溶けて消え、返ってきたのは静寂だけ。
家人の一人が帰宅し、もう一人が遠出の最中であれば誰からも出迎えられることがないのは当然だ。だが、当然だと思っているのに物悲しさを覚えるのはきっと賑やかな場所に居過ぎたせいだろう。空間の静けさは昨日となんら変わりないはずなのに、昨日よりもずっと静かで重苦しいように感じた。
ボクは玄関で明かりの消えた室内をしばらく眺め、友人達との食事から逃げるように帰って来たことを少し後悔した。あの場に居ても、淋しさは無くならない。でも、淋しいと訴える自分の心と向き合うことはしなくても良かっただろう。と。
「ヤダなぁ。ボクってばいつの間にこんな淋しがり屋になったんだろうね?」
これは誰かに向けたモノではない。でも声色は明るく朗らかだ。きっと此処が他者が居る空間であれば、茶化す言葉なりなんなりが返されて場の空気は明るいものに変わるだろう。でも一人ぼっちの空間では恋しさが際立つだけ。無理矢理明るく振る舞おうとする自分が痛々しいとさえ感じてしまう。
意を決して一歩踏み出せば、無意識に恋人の痕跡を辿ってしまう。
ダイニングに用意された茶器はモラクスのお気に入り。帰ってくるとまずテーブルに座って疲れを癒すようにお茶を飲む姿を思い出し、今回もきっとそうするだろうと先のことを考える。疲れて帰って来た恋人を労うようにボクがそれを淹れてあげたら、モラクスは喜ぶだろうか? なんて。
(でもモラクスみたいな美味しいお茶は淹れられないんだよねぇ)
興味本位で茶を淹れたことは何度かあったが、いずれも蒸らし過ぎて渋くなったり、逆に薄すぎて色付きの水だったりと散々な出来栄えだった。それでもモラクスは文句を言わず吞んでくれて、そんな予想外の優しさにときめいたりもしたっけ。
モラクスが戻るまでまだ何日もある。明日、練習の合間に雲菫にお茶の淹れ方の指南を仰いでみようかなと考えながら茶器を手に取ると美しい模様が描かれた陶器を光に翳した。藍と碧が作り上げる模様が何を意味しているかは分からない。でも、モラクスはこの茶器が一番気に入っていると眺めながら笑っていた。それはまるでモンド―――ボクのようだから。と。その笑みがあまりにも優しくて、まるで口説かれているようだと茶化してしまった。当時は恋仲になって間もなかったため、素直になることが今よりもずっと難しかったのだ。
(今なら素直に『嬉しい』って言えるかなぁ……?)
茶器を元の位置に戻すと、向かうのはベッドルーム。部屋の真ん中に置かれたベッドは二人で寝ても十分すぎる程大きくて、ボク一人ではあまりにも広すぎて孤独感が増しそうだ。でも、それでも此処に寝転がるのは、モラクスの匂いがするからだ。
「大丈夫。昨日は眠れてないんだし、今日は夢なんて見ずに眠れるはず」
胸いっぱいに息を吸い込めば、安心できる香りに満たされる。心の底から安堵するその匂いのおかげか、すでに限界を超えている身体はすぐに休息モードに切り替わり、やがて微睡が訪れた。
これまで何度も何度もこの時期に繰り返された『過去』。『彼』の命日は奇しくも公演期間の折り返しに当たる。
どうか今宵――いや、今後は過ぎ去った『過去』に掴まりませんようにと夢現で祈りながら意識を手放すボク。
しかし、ボクの祈りは悲しいことに『誰か』に届くことは無かった。
(嗚呼……また見せられるのか……)
ボクの目に映るのは、たくさんの瓦礫の山。遠くに聞こえる咆哮は、忘れもしない――烈風の魔神デカラビアンのモノだ。
多くの命が失われ、大量の血を啜った大地は荒廃しかれた木々がおどろおどろしさを象徴していて、もう数千年以上前の出来事のはずなのに、つい昨日のことのように惨劇の全てが思い出された。
『暴君』と呼ぶにふさわしい魔神の力は強大で、力のない人間など敵うはずもない相手だった。一振りで数多の人命を奪った存在を前に、畏怖の念を抱き信念を砕かれる者も多かった。だがそれでも、それでも『彼』は魔神に屈することなく雄叫びを挙げ群衆を鼓舞し、『自由』を渇望した。
あと少し、あと少しで望むモノが手に入りそうだった。それなのに―――。
『これから先は、君がみんなを導いてくれないか?』
己の命が今まさに尽きそうだというのに、『彼』が口にするのは己のことではなく、『未来』。必ず『自由』を勝ち取ると呼びかける自分の過去の姿に、駈け寄りたいのにどうしても足が動かない。
ただ『過去』を『見る』ことを強要されるボクは、喉奥に突っかかる叫びに窒息しそうだった。
(モラクス、モラクスっ……、ボクは、ボクは間違っていたのかな……、神として、モンドを守るべきだったのかな……)
変えることのできない『過去』を悔やんだところでどうしようもない。それでも『彼』の言葉を思い出す度に『自由』を優先して『導く』ことを放棄した自分の決断が正しかったのか自問してしまう。
神として長きにわたり璃月を統治してきたモラクスは、ボクのこの問いに何と答えるだろう?
『間違っていた』と、責めるだろうか? 『今更だ』と、呆れるだろうか? それとも―――。
『ダメだ! 目を、目を開けてっ!!』
まさに『彼』が絶命するその瞬間。過去の自分の悲鳴のような声が耳をつんざいた。
まるで耳元で叫んだかのような大音量。でも、過去の自分の姿は遠く離れている。夢の世界であるが故、常識を無視した現象が起こっても何ら不思議ではない。ボクは見たくないと目をぎゅっと閉じてみたものの、目の前の惨劇は瞼の裏で繰り広げられている。何度も何度も再現される絶望を見続けるボクは、やがて無数の手が足元の瓦礫から這い出て足を、服を掴み奈落へと引き摺りこもうとしている感覚に襲われた。
奪われた命の数だけ人々を守ることのできる新たな神を渇望した当時を思い出したボクの目からは涙が溢れ、自らが望んだ神になれなかったことを繰り返し思い知らされる。
(ボクがモラクスのように強ければ、何か変わっていたのかな……)
ボクは、力に溺れた魔神デカラビアンのように自分が人々を苦しめることを恐れた。力があろうとも人々を護り見守ることのできる神がいることを大切な人が教えてくれたにもかかわらず、ボクはモラクスのようにはなれないと早々に諦めてしまったのだ。
『自由』を得ることは『不可能』と言われていた『人』が『神』に挑み勝利した聖戦に身を置いていたはずなのに、『彼』の意志を受け継ぐと決めてこの器を選んだはずなのに、ボクには決して諦めない強い心を持つことはできなかった……。
(この『過去』はボクの罪悪感の表れなのかもしれない)
繰り返し繰り返し夢に見る『過去』。それはボクを掴まえるために『誰か』が見せているものではなく、他ならぬボク自身が過去を悔やむ余り振り返ってしまっているから見るものなのかもしれない。
過去を乗り越えたと思っていたのは、ただの勘違いなのだろうか……。
ボクが想うのは、誰よりも強く、そして不屈の信念を持った大切な存在。彼の傍に居ると『過去』の夢を見ずに済んだのは、彼の傍に居ることでボク自身が変われると―――彼のようになれると思えたからだろう。
(ねぇモラクス、今すぐ君に逢いたいよ……)
断罪の業火に包まれる戦場の最中、人々の怒号と悲鳴に耳を塞ぐボクはその場に蹲り一筋の光を手繰るように恋人を想うのだった。