「バルバトス」
鍾離への想いを手放すことができず苦しんでいたウェンティの耳に届いた声は、彼が聞きたくて堪らなかった音だった。
彼を恋しいと思うあまり幻聴が聞こえ始めるなんて、自分はいよいよおかしくなってしまったのかもしれない。
自嘲気味に鼻を啜るウェンティは、もう諦めていっそ罵倒されにでも行こうかと考える。鍾離の嫌悪に満ちた声と言葉を聞いて救いのない恋心に引導を渡してもらおう。と。
だが、そう思っているのにやっぱり足は動いてくれず、憐れなほど彼への想いにしがみつく自分にまた笑い、泣いた。
「バルバトス」
「…………え?」
自分を呼ぶ愛しい音。それが先程よりもはっきりと聞こえた気がする。
彼を想い顔を上げるウェンティ。頬は涙でべしょべしょになっていたが、肝心の涙は驚きのあまり止まってくれた。
何故なら、顔を挙げたウェンティの視界に自分と視線を合わすようにしゃがみ込んだ鍾離の姿があったから。
「もら、くす……?」
困惑のあまり呆然と彼の名を口にするウェンティは、幻聴だけでなく、幻影まで見てしまっているのだろうかと自身の正気を疑った。
だが、目の前にいる鍾離の眉間には見慣れた皺が刻まれており、どうせ幻を見るならあの時の――愛おしそうに自分を見つめる彼の姿を見せて欲しいと思ってしまう。
「……何故泣いている?」
顰め面の鍾離は手を伸ばし、頬に触れてくる。
ウェンティが驚いたのは、『触れられた』という感触があるからだ。
目を見開くウェンティ。今目の前にはいるのは、もしかすると本物の彼なのだろうか? と。
「モラクス……?」
呆然ともう一度彼の名を呼べば、頬に触れていた手が離れてゆく。
彼の眉間には、変わらず深い皺が刻まれたまま……。
(嗚呼、彼は本物のモラクスだ……)
夢でも幻でもなく、彼の人が今自分の目の前にいる。
ウェンティにとって、それは喜びであると同時に絶望だった。逢いたくて堪らなかった人は、自分を断罪する為に此処にいるだろうから。
自分の恋心は、此処で粉々に砕け散るのだろう。
つい先程そうする決意をしたばかりなのに、未練がましくも逃げ出したくなってしまうのは仕方ない。
ずっとずっと、もう数千年も抱き続けた想いを手放すことなど、できるわけがなかった……。
「逃がすと思うか?」
「! や―――っ」
逃げなければ。今すぐ此処から、逃げなければ。
だが、ウェンティが行動に移るよりも早く鍾離の手が伸びてきた。
腕を掴まれたウェンティは怯えたように抗うのだが、次の瞬間、予想外のことが起こった。
(え……? な、んで……?)
掴まれた腕を引く強い力。
それに抗うことができず前のめりになったウェンティは、鍾離の胸に顔を埋めるようにぶつかってしまった。
これは不可抗力でワザとじゃないと反射的に謝ろうとしたウェンティ。
だが、顔を上げることは叶わなかった。何故なら、逞しい腕によって力いっぱい抱きしめられていたから。