仕事を切り上げ、往生堂を出た鍾離が足を向けたのは自宅――ではなく璃月港の北にある大橋だった。
大橋を渡り終えて北上し、瓊璣野を抜ければ碧水の原に辿り着く。碧水の原はモンドに隣接しており、荻花洲には七天神像が祀られている。鍾離が向かっているのは、其処だった。
人目を気にして『凡人』らしく歩みを進める彼は、意識を集中し、彼の地へと思いを馳せる。
次の瞬間、今自分が直接得ている感覚とは異なる感覚が流れ込んできた。
(嗚呼、思った通りだ)
歩みを進める鍾離の表情に浮かぶのは、愉悦。満足気に口角を持ち上げ微笑む姿は、すれ違う人達の目を奪った。
普段の禁欲的で誠実な姿からは想像もできないほど妖艶な笑みは男の色香を存分に纏っている。
思わず見惚れて振り返る女人達の瞳は恋焦がれており、うっとりとした表情でその後ろ姿を見送っている者が後を絶たなかった。
後日、璃月港はこの話題で暫く盛り上がりを見せていたが、それは本人の知らぬところだ。
愛すべき璃月の民達の様子に目もくれず先を急ぐ鍾離が見ている景色は、自身の琥珀に映るそれとは異なっていた。
碧水川によって形成された浅瀬に囲まれた平原を守る七天神像が見ている景色が、今彼が見ている景色だった。
美しい自然豊かな平原の風景。其処は時の流れがゆっくり進んでいるかのようなのどかさがあった。
人の姿は殆ど見られないが、それが時折訪れる『彼』には好都合だったのだろう。
(恋仲になって初めて、か?)
鍾離の前には――いや、七天神像の前には、隣国の神であった少年――ウェンティの姿が。彼は翡翠を蕩けさせ、身体をゆらゆら揺らしながら神像を見つめていた。
その様子は明らかに平常時とは異なっていたが、鍾離はその理由を知っていた。
何故なら、ウェンティの手にはおそらく空になっただろう酒瓶が握られていたから。
(俺が贈った物ではないが、まぁあの一本で酔っぱらうほど弱くはないから当然か)
酒瓶にラベルまでは確認できないため銘柄は分からないが、自分が生誕祝いとしてアカツキワイナリーのオーナーにこっそりと言付けておいた品でないことは確かだ。
受け取った品に、酒好きの恋人は嬉々としてそれを呑んだに違いない。
そしてそれが呼び水となり、いつものように浴びるように酒を呑んだ結果、酔っぱらうに至ったのだろう。
鍾離は思惑通りだと笑みを深くした。
(バルバトス、お前のつまらない羞恥はこれで取り除かれただろう?)
だからこそ、今其処に居るのだろう?
そう心の中でウェンティに問いかける鍾離は、恋仲になってからとんと訪れなくなった風を誘い出すことに成功したことを喜んだ。
彼の地へと向かっている理由は、風を迎えるため。いや、むしろ『掴まえるため』と言った方が正しいだろうか。
鍾離は恋人が目的を果たして去ってしまう前に急ぎ彼の地へと向かわなければと足を止めた。
璃月港から遠ざかれば人の姿は途端に見なくなる。
周囲を見渡す男は、己が認識できる範囲に人目が無いことを確認すると、ほんの少しだけ『凡人』であることを休むことにした。