これは自分の願望が見せる妄想だ。
そう思っているのに何故か焦燥感を覚え、急いでこの場から逃げなければと空を見上げるウェンティ。
海を渡った先にある地図にものっていないあの島に逃げ込めば、時間はきっと稼げるはずだ。
深く考えることなく思いついた思考のまま星拾いの崖から飛び立とうとしたその時、この場に居ないはずの彼の声が聞こえた。
「バルバトス。もしもこの声が聞こえているのなら、逃げるな」
何故自分が今逃げようとしている事が分かったのか。
いや、そもそもこの声は何処から聞こえたのか。
限界を超えた困惑に立ち尽くすウェンティは呆然とモンド城の明かりを眺め、そして観念した。
(『頼む』だなんて、一度も聞いたことないのにね……)
立ち去ることを禁じるような命令の後に続いた、縋るような声。
それは今まで一度も聞いたことのない懇願を示す言葉で、ウェンティは自分の願望に自嘲を零した。
声が何故聞こえたのか、そんなことはもうどうでもいい。
ただ、まるで鍾離が自分を大切に想っているかのような切ない音に、どうしようもないほど彼が好きな自分が憐れで愛おしく思ってしまったのだ。
(ねぇ、モラクス。君はこんなボクを見てなんて言うかな? 愚か者だと呆れる? それとも、……それとも、少しは風情が分かったかって、許してくれる……?)
願望が見せた鍾離の姿に、一縷の望みを抱いてしまう。
もしかしたら、彼はこの想いを抱き続けることを許してくれるかもしれない。と。
(ボクの気持ちに報いて欲しいなんて、そんな我侭は一生言わない。だから、だからどうかこの想いを否定することだけはしないで……)
ウェンティの乱れた心を表す様に吹き荒れていた暴風はぴたりと止み、草木が揺らめくこともない凪いだ空間に、すっかり夜に姿を変えた空を見上げ、涙が零れ落ちないようにと瞳を閉ざした。
凪の中には風は存在しない。それでも自分を心配するかつての仲間たちの気配を感じ、自分は大丈夫だと強がってみる。
自分の想像の中の鍾離が言った言葉を律儀に守るウェンティは、この状況をさながら刑の執行を待つ罪人の気分だと思ったのだった。
(『好き』って本当、苦しいね)
愛すべきモンドの民達はよくこんな苦しみに耐えて命を育んでいるものだと素直に尊敬を覚える。
生きた年数で言えば、ウェンティにとって『人』など何も知らない赤子同然の存在だ。
しかし、彼らは自分よりもずっと逞しいと称賛するのは、この痛みに耐えて命を繋いでいるからだ。
誰かを愛し、また誰かから愛され命を繋ぐ『人』が時折愛を失い悲しみに暮れる事を知っている。
でも、ウェンティはそれを知りながらも明日からの自分がいったいどうなってしまうのか、想像もできないでいた。
「バルバトス」
静寂に包まれた星拾いの崖の一角から聞こえる音は、先程自分の空想が見せた音と何ら変わらない。
だが、それが想像上の音ではないと言うことは、目視するまでもなく感知できる純度の高い岩元素が教えてくれた。
「モラクス……」
振り返るウェンティの視線の先には、思った通り、ゆっくりと此方に歩み寄る鍾離の姿があった。