一歩、また一歩と近付いて来る姿に、ウェンティの足は竦む。
できることなら飛んで逃げてしまいたいが、この距離ではそれは叶わないだろう。
必死に平静を装い挨拶を投げかけるも、情けないことに声は震えてしまっていた。
何も言わずじっと自分を見据えて近付いて来る鍾離は数歩手前で足を止めた。
凪いだ空は居心地の悪い沈黙を増長させ、掴まってもいいから逃げたくなってしまう。
がくがくと膝から下が震えている感覚を覚えながらも、「無視をするなんて酷いじゃないか」と精一杯の軽口を投げかけた。
「…………バルバトス」
視線を逸らすことなく注いでくる鍾離が紡いだ名前に、心臓が飛び跳ねる。
口から出そうになったそれを抑えるように胸元を握りしめるウェンティは、顔を引き攣らせながらも何かと問うた。
問いかけに鍾離は口を開くが、言葉を発する前にそれを閉ざし何やら考えあぐねている様子だ。
今なら逃げられるのでは? と囁く臆病な自分を何とか制止してその場に立ち続けていれば、鍾離は再び口を開いた。
「この場にいるのは――――、……今、此処に留まっている理由は、俺の声が聞こえたからか?」
「…………え?」
想いを拒絶する言葉が出てくると思っていたウェンティは、一瞬何を言われたか分からなかった。
全く想像していなかった言葉にぽかんとしていれば、鍾離は困ったような笑い顔を見せた。
その笑みの理由が分からず、困惑を表情に出すウェンティ。鍾離はそれを知ってか知らずか、話を続けた。
「旅人からお前は知らないと聞いていたが、やはり知っていたか」
安堵したような表情に、彼が何かに安心している事は分かったのだが、『何に対して』安心しているかはさっぱりわからなかった。
鍾離が何の話をしているか全くわからないため返事をできずにいると、彼は再び歩みを進めた。
更に近くなる距離に逃げようと思うも、動く間もなく伸びてきた手に掴まってしまった。そして、腕を掴まれたかと思えばそのまま引き寄せられて――――。
(え? ええ? ええええ??)
理解できないことが立て続けに起こって、ウェンティの思考は完全に停止する。
ただ黙って目を瞬かせるウェンティの耳には、煩い程早く鼓動している心臓の音が鮮明に聞こえる。
しかしそれは当然だと思うのは、鍾離に抱きしめられているからだ。
(すごい。自分のキャパシティを越えると人ってすごく冷静になるんだね?)
自分のことなのにまるで他人事のようだと思うウェンティだが、それが現実逃避だと言うことには気づかない。
だがそれでも自分を抱きしめる腕は力強く温かくて、何故こんなことになっているかは後から考えようなんて思ってしまう。
今はただ、仮初の恋人気分を味わってもいいだろう。だって自分はこの後、彼への想いを手放さなければならないのだから。
(おかしいな。ドキドキし過ぎてモラクスの心臓までドキドキしてるみたいに聞こえるや)
この鼓動は自分の心臓だけが奏でているはず。それなのにどうして彼の鼓動までドキドキして聞こえるのだろうか。
しかし考えても答えは出てこない。
ウェンティは思考を放棄し、自分を抱きしめる鍾離の背に手を回して彼への想いを抱いたままの触れ合いに薄く微笑み目を閉じた。