たとえ一時でもいいから、勘違いでもいいから、こうやって彼と抱き合いたかった。
その望みが叶った今、ウェンティには思い残すことは無かった。この後鍾離に何を言われようとも、その全てを素直に受け入れ、彼の心に従おうと思うことができたのだ。
もしかすると、彼なりの最後の情けなのかもしれない。何故なら、鍾離は確かに頑固で融通の利かない一面はあるが、それでも本当はとても優しい神様なのだから。
自分には過ぎる対応だと思うウェンティ。だが、それでもやはり胸は痛かった。
「……モラクス、ありがとう。……もう、いいよ」
「? バルバトス?」
どれ程の間鍾離の腕に居たのだろう。おそらく数刻だろうが、それでもウェンティにとっては十分すぎる時間だった。
胸を満たす愛おしさに恋しさが混ざった事に気付いたウェンティは、これ以上抱きしめられていたら想いを断ち切れなくなってしまうと鍾離から離れようとする。
今鍾離がどんな顔をしているのか確認する勇気が出ない自分に自嘲を漏らしていれば、訝し気な声で名を呼ばれる。
その声に心配しているような音を感じ取ったのは、きっと自分の願望だろう。
ウェンティは鍾離の硬い胸板を押し、彼のぬくもりから逃げるように距離をとる。
しかし、一歩下がろうとしたウェンティの腕を掴むのは鍾離その人で、「どうかしたのか?」と尋ねられた。
どうしたもこうしたもないと思うのは勿論ウェンティで、今から自分は振られるのに、これ以上『好き』を増やさないでと顔を歪めた。
「ごめん……、なんでもない。……うん、もう大丈夫。ありがとう、モラクス。ちゃんと話をしよう?」
もう逃げないから。
そう言って力なく笑うウェンティ。鍾離の優しさを無下にできないと己に言い聞かせ、必死に大地を踏みしめ笑顔を張り付けて顔を挙げたのは、それからすぐのことだった。
翡翠に映るのは不思議そうな顔をした鍾離で、彼は自分の言葉に心当たりがないと言わんばかりだった。
意地が悪いと一瞬思うも、掴まれたままの腕から伝わる温もりが僅かな期待を生み、平静を保てなくなってしまう。
「大丈夫……、もう、……もう、止めるから……」
注がれる琥珀に耐え切れず視線を下げるウェンティの呟きは、とても小さく聞き取り辛いものだった。
きっと普段なら、崖を吹き抜ける風の音にかき消されていただろう。しかし生憎今はその風は吹いておらず、凪が生んだ静寂は鍾離に音を届けてしまった。
「『止める』とは、何のことだ?」
「っ――――」
問いかけを投げかけてくる鍾離の声のトーンは明らかに下がっており、不機嫌だと直ぐに分かった。
自分が『止める』と言っているのは『何のこと』か、彼は分かっている。
それなのに、知らぬ振りをするのは流石に悪趣味ではないだろうか?
ウェンティは唇を噛みしめ、こみ上げてくる涙を必死に堪えた。
「答えろ、バルバトス」
地を這うような低い声に感じるのは、圧。
身が竦むような彼の怒気にウェンティは噛みしめていた唇を開き、震える声で自分が隠れてずっと繰り返して来た『祈り』を暴露した。